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「憲政の神様」が突き進んだ泥仕合 信を失った政党、隙をついたのは 編集委員・藤田直央 三宅梨紗子 編集委員・奥寺淳2024年12月28日 6時01分

  • 執筆者の写真: 羅夢 諸星
    羅夢 諸星
  • 2024年12月28日
  • 読了時間: 11分

デモクラシーと戦争② 「自滅」した政党政治

 政権をめぐる政党同士の駆け引きが、民主主義と暴力を近づけてしまう矛盾。戦間期の日本にも、教訓とすべき失敗がある。

 百年前の1925年。男子限定ながら、納税要件を撤廃した普通選挙法が制定された。衆院第1党から首相が出る政党内閣の時代が訪れていた。

 当時、朝日新聞の投書欄「鉄箒(てっそう)」に載った声から、国民主権の意識の高まりがうかがえる。

 「政党内閣にあらざる内閣を時に忍んで来たのは、既成政党が民意を代表して居(お)らぬと認めたからだ。普選によって民意を代表せりと認むる以上、政党内閣にあらざれば之(これ)を認める事が出来ぬ」

 元老から天皇への推挙をふまえて決まる首相について、衆院第1党に任せつつ、失政があれば交代して第2党から出すようになった。政友会と民政党の2大政党による政権交代は「憲政の常道」と呼ばれた。


デモクラシーと戦争① 民主政治が「脱線」するとき

 世界各地で、政党政治が揺らいでいる。

 政策の選択肢を示し、競い合い、折り合い、民意をまとめ、より良い選択へ導く。本来、政党に期待される役割だ。しかし、違いを強調するあまり、互いを否定し、衝突し、果ては力でねじ伏せようと試みることさえある。それが有権者の失望を招く。

 韓国では政治の極端な二極化とイデオロギーの争いで、与野党の対立が極限に達している。その末に、尹錫悦(ユンソンニョル)大統領が野党を封じようと非常戒厳を発し、国会に軍隊を派遣する事態になった。

 約4年前、米大統領選で不正があったと言い張るトランプ氏――次期大統領となる――にあおられ連邦議会議事堂を襲った人波は記憶に新しい。

 ドイツでは政権内の対立で3党連立が崩れ少数与党化するなか、「ドイツのための選択肢(AfD)」など、移民や難民の排斥や受け入れ大幅制限を掲げる急進右派や左派ポピュリストの政党が急速に支持を広げている。2024年には欧州議会議員が選挙前に極右過激派の一員とみられる若者に襲われた。右翼政党も多くの暴力被害を受けた。政治的動機による犯罪が10年間でほぼ倍増したと連邦刑事庁長官は述べている。

 「政治的な動機による暴力が常態化してきている」。シュタインマイヤー大統領は同年9月、テロや襲撃、脅迫の被害にあった警察官や政治家、ジャーナリストらとの円卓会議で危機感を語った。わずか3カ月後、ドイツ東部マクデブルクではクリスマスマーケットが襲撃される事件が起きた。その後の演説で大統領は、「憎しみと暴力に最終決定権を握らせてはならない。我々を分断させることは許さないようにしよう」と述べ、国民に団結を呼びかけた。

 社会は移民問題などをめぐり分断し、経済はロシアのウクライナ侵攻によるエネルギー価格高騰などで停滞する。問題を解決できない既成政党への失望。それが政治的暴力が続く背景にある。

 漂うのは「ワイマールの亡霊」。百年前を想起させる空気だ。

 1919年に成立したドイツのワイマール共和国は、男女同権の普通選挙制度をはじめ、世界一民主的とされる憲法を携えていた。だが一方で、ナチス政権の成立で崩壊するまでのその14年間は、政治的暴力が横行する時代でもあった。

 世界と日本の100年を振り返り、私たちの未来を考えるシリーズ「100年をたどる旅―未来のための近現代史」。今回の「デモクラシーと戦争」編では、多くの国で理想と考えられてきた民主的な政治形態がしばしば戦争や抑圧を防げなかった経緯をたどります。連載第1回と第2回では、「政党政治」を取り上げます。

世界の非難に背を向ける国 イスラエルが陥った「ひずみ」

 当時のドイツも、第1次世界大戦の賠償やインフレなどで社会が混乱。小党が乱立し、選挙ごとに連立政権の組み合わせが変わる。激しい政争が、暴力を伴ってエスカレートしていった。

 暴力は突如ナチスとともに生まれたわけではなかった。「ナチズム前夜」の著書がある原田昌博・鳴門教育大教授は「暴力は共和国の初期から一貫して存在していた。それが政治と結びつき、社会に浸透していった」と指摘する。左右両極ができたての共和国の打倒を狙い、党争や暗殺を繰り返したという。

 ナチスだけでなく、社会民主党など共和国擁護派の政党や共産党もそれぞれ武装組織を持っていた。そのうえ入り浸る酒場さえ党派ごとに分かれ、「現代のネット空間のエコーチェンバーのように、同質化された空間が暴力の拠点にもなっていった」。

 多彩な政党があれば細やかに民意が反映され、多様な人々の自由と人権が尊重される国になる。私たちはそう期待する。だが、その多様性が落とし穴になった国がある。

 世界各国からの非難に背を向け、パレスチナ自治区ガザへの攻撃を続ける国。イスラエルだ。

 ガザでの死者は4万5千人に達し、地区人口の9割にあたる約190万人が避難生活を送る。

 11月21日には、国際刑事裁判所から戦争犯罪容疑でネタニヤフ首相の逮捕状が出された。イスラエルは民主主義国として認識されてきたが、人道主義や人権、報道の自由といった民主主義の普遍的な価値を傷つけている、との声が欧米でも上がっている。

極右を入れざるを得ない政権 失われた歯止め

 イスラエルが戦争を続ける背景には、小党が乱立し、3年半の間に5回も総選挙が行われるような、政権が安定しない政治構造がある。

 国会は一院制で、全国に1区だけの完全比例代表制を採る。本来は多様な民意を反映でき、多民族国家に適した制度に見えるが、弱点がある。

 多くの党に票が分散するため、これまでにイスラエルで単独過半数を得た政党はない。近年は政権の崩壊と総選挙を繰り返してきた。

 2022年11月の総選挙では40もの政党などが争い、議席を得た政党が10にのぼった。最多の議席を得たネタニヤフ氏率いるリクードですら、定数の4分の1余りの32議席にとどまった。

 過半数を確保し政権を作るには複数政党と連立を組まねばならない。ネタニヤフ氏が中道や中道右派などでつくる当時の与党勢力に対抗するため、第6次政権のパートナーに選んだのは極右と宗教政党だった。

 ガザを完全制圧して、奇襲攻撃を仕掛けたイスラム組織・ハマスを壊滅させよ。パレスチナ人を追い出し、ユダヤ人入植を進めよ――。もともとパレスチナとの「2国家共存」に後ろ向きなネタニヤフ氏が、連立相手の要求を次々に丸のみしていった。

 中東情勢に詳しい鈴木一人・東京大学公共政策大学院教授は、イスラエルが陥った民主主義のひずみを指摘する。「民主主義だからこそ極右を政権に入れざるを得なかった」

 政権を失えばハマスの奇襲を許した自らの政治責任を問われる。政治的生存を最優先に考え、強硬姿勢を崩さず戦争遂行を正当化しているともみられている。

 連立相手が中道や穏健政党ならブレーキにもなる。だが、極右政党と組んだ「史上最右翼政権」では歯止めが利かない。

 鈴木氏は、イスラエルが民主主義だからこそ戦争が止められないともいう。ハマスの奇襲で心に傷を負った多くの国民が「パレスチナ人はみなハマスに共感している」との心理に陥った。怒り、屈辱、復讐(ふくしゅう)心。人質解放を交渉しない政権への批判こそあれ、国民の大半は戦争自体には反対していない。

 「民主主義はむしろ、戦争に至るまでの熱狂を助長しやすい。国民が不安を持っていれば、戦争をあおる方に傾く。ハマスを根絶してほしいという国民の不安を、ネタニヤフ氏は民主主義で体現しているともいえる」

 民主主義にも負の面があることを、この戦争は物語るのかもしれない。

 トランプ氏が米大統領に返り咲き、イスラエルは強力な後ろ盾を得ることになった。これも民主主義の結果だ。しかし、パレスチナとの「2国家共存」を求める国際社会の大勢とはますます離れていくことになる。

 政権をめぐる政党同士の駆け引きが、民主主義と暴力を近づけてしまう矛盾。戦間期の日本にも、教訓とすべき失敗がありました。第2回では、当時の日本の民主主義と政党政治の「敗因」を考えます。


 世界と日本の100年を振り返り、私たちの未来を考えるシリーズ「100年をたどる旅―未来のための近現代史」。今回は「デモクラシーと戦争」編第2回です。前回(第1回)は、ヒトラーが台頭する素地となったワイマール憲法下のドイツや、現代のイスラエルの事例などをもとに、「民主的」な政治体制にひそむ危うさを探りました。

政争が五・一五事件口実に 間隙を縫った軍部

 その歯車が、1930年の帝国議会から狂い出す。

 この年、米英に譲歩しロンドン海軍軍縮条約の交渉をまとめた民政党の浜口雄幸内閣を、政友会は「海軍の意見に反し、天皇の統帥権を侵した」と攻撃した。政友会総裁は「憲政の神様」と称された犬養毅。軍縮に賛成してきたはずだった。

 軍縮条約交渉と統帥権をめぐる、30年4月25日の衆院でのやり取りはこうだ。

 鳩山一郎(政友会) 統帥権の作用について直接の機関(軍)があるのに、その意見を蹂躙(じゅうりん)して、責任のないもの(内閣)が飛び出して変更したことは乱暴だ。所属議員が増えたために(民政党内閣の)政府は憂慮を忘れてしまったのではないか。

 浜口 鳩山君の質問は、政府が(海軍)軍令部の意見を無視したという仮定の事実の上に憲法論を述べられた。間違った事実に基づく憲法論に答弁する必要はない。

 浜口も譲らない。昭和天皇に交渉取りまとめを促されて意を強くし、議論に応じなかった。犬養は批判を強める。議会終了後の臨時党大会で「現内閣は統帥権干犯までして譲歩した」と訴えた。

 翌年の帝国議会では、軍縮条約は天皇が批准しており国防を危うくするものではないという浜口内閣の答弁を、天皇に責任を負わせる失言だと政友会が攻撃。乱闘が起きた。

 「憲政の常道」を担う2大政党が、互いに天皇の威を借り、内閣や議会の存在価値を自らおとしめた。

 代償は大きかった。

 恐慌と生活苦に、両党関連の汚職も重なった。その中での政争はテロに口実を与えた。30年秋に浜口が右翼青年に狙撃され、翌年死去。32年には五・一五事件で首相の犬養が海軍青年将校らの凶弾に倒れた。「憲政の常道」は8年で幕を閉じる。

 五・一五の実行者らは軍縮条約などをめぐる「政党政治の混乱」を理由に挙げた。国民から集まった減刑嘆願書は少なくとも数十万通と研究者らは指摘。小山俊樹・帝京大教授は著書「五・一五事件」(2020年、中公新書)で「70万通を超えた」とする。

 33年の「鉄箒」の投書は政党不信の深さを物語る。「政党は五・一五事件の警鐘ありしに拘(かかわ)らず、依然として政権欲以外の何物も持ち合わせずとの印象を与えている」

 間隙(かんげき)を縫って軍部が鎌首をもたげ、政治も引きずられていく。

 31年、満州事変。33年、国際連盟脱退宣言。政府全権として国民の喝采を浴びた松岡洋右が、政友会を離れて始めたのは政党解消運動だった。

 政党という「西洋からの借着」は、日本人の体にそぐわない。近年は泥だらけに汚れてきた。党争をやめて軍部とも協力し、挙国一致で大国難を突破しよう――。

 憲法学者の美濃部達吉が反応した。34年に朝日新聞へ寄稿し、「明治維新に匹敵すべき重大な社会改革を要する時代には、政党内閣では困難であり、強力な挙国一致内閣を必要とする」と説いた。犬養の次の首相で海軍大将だった斎藤実挙国一致内閣を追認した形だ。

 巨額の選挙資金を得るために資本家と結託する。政権を党利に悪用する――。恐慌に苦しむ国民のそんな政党批判を、政党自体は議会制度に必須だと力説した美濃部も、認めざるをえなかった。

 翌年には美濃部の学説が軍部や右翼、政友会に攻撃される「天皇機関説事件」が起き、政党政治の衰えと軍部台頭を印象づけた。政友会と民政党は40年に解散し、翼賛体制に吸収される。敗戦まで、政党内閣が再び現れることはなかった。

衆院選経た日本、二大政党の政争か他党乱立の混迷か

 戦間期の日本から見えるのは危機の局面で揺らぐ政党政治のもろさだ。

 政治学者の御厨(みくりや)貴・東京大名誉教授は背景を「藩閥政治には維新を成し遂げた建国の神話という堅固な土台があったが、政党政治にはそれがなかった」と読み解く。

 「国民生活をこう良くすると各論を言っても、政争でころころ話が変わる。そんな政治の矛盾を解くかのように国民から見えたのは、軍だった」

 39年5月の「鉄箒」に政党政治と藩閥政治を対比して論じた投書が載っている。「藩閥政治を打破することによって、日本の政治の封建性にとどめを刺したかに見えた政党は、それ自身の中に、依然として多分の封建性を保存していた。……その結合の基礎は、主義政策といふよりも、寧(むし)ろ常に人物であり、人物の持つ勢力であった」

 現代日本も安全保障に不安を抱える。中国、北朝鮮に加え、ウクライナに侵攻したロシアとの関係も悪化した。

 先の衆院選を経た日本は、戦間期の日本のような2大政党間の政争にも、程度の違いはあれ今のイスラエルや戦間期のドイツのような政党の連立・乱立による混迷にも振れ得るように見える。

 戦間期の日本では、保守2大政党が翼賛体制へ吸収され、戦線を広げる「皇軍」を支えた。歴史学者の五百旗頭(いおきべ)薫・東大教授は「現代では、不安を抱えた既成勢力が中道で身を寄せ合った時、左右の極にあるポピュリズムが輝いて見える」と語る。

 思い描く政策を行うための競い合いが、政権の取り合い、足の引っ張り合いに変わる。競争の自己目的化という危うさが政党には内在する。この百年の過ちを、政党はこれからも繰り返すのか。それは主(あるじ)である国民の選択にもかかっている。

 歴史の節目に、繰り返し登場する言葉があります。それが「勢い」。12月29日午前6時配信(予定)の第3回では、昭和天皇が「誰でも止め得られなかつたと思ふ」と振り返った戦前の軍部の勢いや、当時の政府当局者たちの動きを検証します。



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