石破総裁の自民党は「保守政党」なのか 佐伯啓思さんが問い直す 2024年10月2日 6時00分
- 羅夢 諸星
- 2024年10月2日
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9月27日の自民党総裁選で石破茂氏が新総裁に決定した。ふりかえってみれば、今回の総裁選は、安倍派内部の不適切な政治資金処理からはじまり、やがて「政治とカネ」および「派閥」という自民党の体質が問われ、党改革や政治改革がひとつの論点となった。
その意味では、従来の派閥に属さずに自民党のなかで「異端」の立場にあった石破氏の当選も、この流れに乗ったものであろう。
石破氏が広く知られるようになったのは、1993年に政治改革法案に賛同して、自民党を離党したあたりからである。その後、自民党に復帰するが、90年代とは、ジャーナリズムや世論もふくめて、「改革」一色の時代であった。
世界中が急激な変化にさらされている時代にあっては、あらゆる領域で時代遅れの慣行や不都合な制度はでてくる。だから改革は当然だとしても、政治の中心的な場所で「改革」が叫ばれて30年というのはいささか異常であろう。
自民党の「保守」とは何なのか
ところが他方で、今回の自民党総裁選では、当初、多くの候補者が「保守」という言葉を使った。
確かに「自民党とは何か」と問えば、まずは「保守政党」である。では「保守とは何か」と問えばどうか。答えは決して容易ではない。しかも、平成に入って以降、「改革」の旗振り役が自民党であったとなれば、果たして自民党にとって保守とは何なのであろうか。
改めて振り返ると、自民党の結党は、日本の国際社会への復帰から3年後の55年であった。この年、分裂していた日本社会党の左右両派が再び合同した。この事態に危機感をもった、吉田茂によって結成された自由党と鳩山一郎ひきいる日本民主党が合同して結党したのが自由民主党である。
後者をより具体的にいえば、自由党は平和憲法と日米安保体制を前提とし、資源をもっぱら経済成長に投入しようとし、他方、日本民主党は対米依存から脱却し、主権国家としての自主的な憲法制定を目指すというものであった。
したがって、自民党には、国防の米国依存と経済成長追求という方針と、憲法改正・自主独立という方針のふたつが混在する。そして現実には、「平和憲法・日米安保体制のもとでの経済成長」という、いわゆる「吉田ドクトリン」が戦後日本の基軸となる。
「対米依存の保守」という矛盾
もしも「保守」の核に、福沢諭吉のいう「一身独立・一国独立の精神」を据えるならば、対米依存は「保守」とはいい難い。「吉田ドクトリン」は、それ以外に現実的な選択は不可能であったという意味では、やむをえない現実的判断というべきである。
これが変則的事態であることは吉田自身よくわかっていた。にもかかわらず、自民党内部に存在するふたつの立場の矛盾を覆い隠したのは冷戦という当時の世界状況であった。
冷戦とは、一方で、米ソ2大大国の覇権争いであると同時に、他方で社会主義と自由主義のイデオロギー対立である。社会主義の脅威から自由主義を守るという「体制の保守」が自民党の使命となった。それはまた日米安保体制による親米路線を意味していた。こうして「対米依存の保守」という矛盾にみちたものが自民党のアイデンティティーとなったわけである。
問題は「冷戦後」である。冷戦における自由主義陣営の勝利は、米国を中心とした世界規模の市場を生み出し、また、自由・民主主義・法の支配、といったこれも米国流の「リベラルな価値」の世界化をもたらした。これが冷戦後のグローバリズムである。
しかも、米国は、この「リベラルな価値」の世界化をひとつの強力な歴史観として提示した。それは、世界史とは、人類が生み出したこの至高の価値を実現するプロセスだというのである。
第1次、第2次世界大戦も、そして冷戦も、皇帝支配体制やファシズムや全体主義という「リベラルな価値」の破壊者から、この普遍的価値を守るための戦いであった。米国こそがその使命を帯び、そのために世界に冠たる軍事力をもつ、という。したがって、米国にとって、近代の戦争はすべて「リベラルな価値」を守るための「正義の戦争」なのである。
このような歴史観を表明したのは、「ネオコン(ネオコンサーバティブ)」つまり「新保守派」と呼ばれる知識人や政治家であった。そして、ネオコンからすれば「リベラルな価値」による世界秩序が実現するまで歴史に終わりはない。
特にレーガン政権時代に台頭してきた新保守主義者。本来、保守主義者は、伝統的な価値観、特にレーガン政権時代に台頭してきた新保守主義者。本来、保守主義者は、伝統的な価値観、信条などを守り、外交的にはなどを守り、外交的には孤立主義的だが、的だが、ネオコンは米国の価値観やは米国の価値観や民主主義などを海外、特に非西欧社会に「などを海外、特に非西欧社会に「移植」しようとする点で特異な存在。」しようとする点で特異な存在。
実際、冷戦後になると、イスラム過激派やテロ組織がリベラルな世界秩序の破壊者となり、さらには、プーチンのロシアが新たな挑戦者となった。「リベラルな価値の普遍性」を信奉する西側諸国は、この価値を守るためにウクライナを支援すべきだ、という。
今日、日本はこの種の米国の歴史観を受け入れている。2005年、米国の対テロ戦争を受けてであろう、小泉内閣のもとで日米安保体制の再定義が行われた。それは、日米同盟は、相互の軍事的協力体制というだけではなく、両国が協力して「世界における課題」に対処するためにある、というのだ。それは平和的な「世界秩序」を形成するための同盟なのである。
いうまでもなく、これは米国流の歴史観への日本の編入を意味していた。それ以降、日本の指導者は、ことあるごとに「日米は価値観を共有している」という。それは、「リベラルな価値」の普遍性を実現するという「ネオコン型」の歴史観の共有ということである。
だが「価値観」とは何だろうか。かつて政治学者の高坂正堯は、国力とは「力の体系」「利益の体系」「価値の体系」からなると述べた。おおよそ「政治」「経済」「文化」に対応するであろう。だが、「力」と「利益」はともかく、「価値」にはふたつの次元がある。
ひとつは、公式的で明示的に述べることができる。「リベラルな価値」はまさにそれである。だがもうひとつ、明示的な表現は難しいが、その国の歴史を通じて維持され、文化や人々の精神のなかに宿り、日常生活を支えてきた慣習や習俗がある。それは道徳や倫理観であり、自然観や死生観や歴史観やさらには宗教意識でもある。
「保守が守るべきもの」を問い直せ
憲法や政治学の教科書に書かれるような「リベラルな価値」という公式的で明示的な価値は、確かに米国とも共有できるかもしれない。しかし、背後にある「潜在的な価値」は、決して日米で共有できるものではない。実際、日本人のもつ歴史意識は、米国のネオコン型のそれとはまったく異なるであろうし、個人の自由に対するほとんど無条件の信仰は日本にはほぼ存在しない。
ところが、今日のグローバリズムは、自由や富の無限の拡張を求めて絶え間ないイノベーション、つまり「創造的破壊」のなかにわれわれを投げこんだ。それは、既存のものを捨て去り、新奇なものに価値を求め、たえず未知なる場所へと活動領域を拡張し、すばやく新しい情報を手にしようと多忙を極める精神である。それは、変化そのものに価値をおく。
しかし、たえざる過去の破壊という革新の精神とは、実際には、一種の自己否定である。なぜなら、常に新奇なものを求めるものは、次の瞬間には、おのれ自身を古びたものとして捨て去るからだ。過去を顧みないものは、未来を真に大切にすることもない。
「保守とは何か」と問うた時、私は、英国の政治哲学者マイケル・オークショットの次のようないい方に惹(ひ)かれる。「保守」とは抽象的な理念やイデオロギーではなく、人の性格であり、生きていく上での態度だと彼はいう。それは「見知らぬものよりも慣れ親しんだものを好み、ありあまるものよりも足りるだけのものに満足し、完璧なものよりも重宝なものを大事にし、理想郷における至福よりも現在の笑いを好む」態度である。
このような「保守的な態度」こそが、われわれの社会生活を真に信頼できるものとするのであろう。とすれば、問題は「自民党にとって保守とは何か」という次元をはるかに超えている。グローバル競争、イノベーション競争がもたらす絶え間ない「変化」と「あわただしさ」のなかに投げ込まれたわれわれ自身にとって「保守とは何か」が問われている。
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さえき・けいし 1949年生まれ。京都大学名誉教授。保守の立場から様々な事象を論じる。著書に「神なき時代の『終末論』」「さらば、欲望」など。
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