(政治季評)権力に従う個人を生み出す現実 自立を育む、主権者教育を 重田園江 2024年11月21日 5時00分
- 羅夢 諸星
- 2024年11月21日
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去る10月27日に衆議院総選挙が行われた。結果は自公過半数割れで、与党は前回2021年の議席を大幅に下回った。たった3年での変わりようには目を見張るものがある。
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これと並んで話題になったのが投票率だ。今回は政権交代の可能性もあるとの前評判から上昇が期待されたが、前回より下がって53・85%、18歳・19歳は速報値で43・06%であった。
16年に18歳選挙権後の初めての国政選挙が行われたころから「主権者教育」ということばが聞かれるようになった。これ自体は戦後の憲法・人権教育の文脈でずっと使われてきた。その後、18歳選挙権導入に先立ち、高校までに主権者としての自覚を身につけるべきだという議論が政府から出てきて、再び注目されるようになった。
たとえば11年4月の「常時啓発事業のあり方等研究会」(総務省)では、模擬投票など選挙への意識を高める教育について検討された。21年3月には「主権者教育推進会議」(文部科学省)最終報告が出され、政府関係の検討会議は一区切りがついた。
実際には、この間に議論された事柄の中心は、政治的中立との両立可能性だった。現実の政党や政策、マニフェストなどを取り上げた場合、特定の政治的立場を擁護することになりかねないという見解を政府がとったからである。そのため、教育現場での主権者教育が投票のまねごとに終始しているという批判も出てきた。一方で現在に至るまで、NPOによる出前授業などは地道に積み重ねられている。
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そもそも「主権者」とは何か。主権概念は16世紀にフランスの思想家ジャン・ボダンによって、「並び立つもののない至高の権力」として定式化された。それは当時の王=君主による国家統一を正当化する論理であり、主権者とは王さまに他ならなかった。
ボーダン(Jean Bodin)
[1530~1596]フランスの政治学者・思想家。 主権を国家の絶対的・永続的権力と考察。 宗教戦争の渦中にあって、王権による政治的統一と平和の回復を唱えた。 著「国家論」など。
その後の革命や共和国の出現によって、主権は王の手から人民へと渡される。日本では戦後憲法においてはじめて「国民主権」が謳(うた)われた。主権は、ヨーロッパでは王権との抗争や革命を通じて、日本では敗戦で天皇主権が廃止されたことによって、国民・市民・人民のものとなったのだ。
こうした主権概念の歴史からすると、日本国憲法の構成はよく考えられたものである。憲法には国民が主権者であると明記されている。この憲法は戦争の反省と軍国主義国家への懐疑という背景のもとで作られた。そのため「国家は間違いを犯す」「国家は個人の権利を侵害することがある」という前提が強く意識されている。これは「天皇」と「臣民」からなる国家という大日本帝国憲法とは異なった考えである。つまり国家は個人の権利を守るのが仕事で、権利侵害があった場合、個人は憲法を文字通り「盾」として国家に対抗することができるのだ。
したがって主権者教育とは第一に、国民の権利が公権力によって侵害される可能性を示し、その場合にどんな対抗策があるのか、実際に憲法がいかなる盾となって個人を守ってきたのかを考えさせるものであるべきだろう。
ところが現実には、主権者教育は06年の教育基本法改正にはじまる、道徳の教科化や愛国心教育の充実の模索と同時期に導入された。そのため、身近な場で公共心をもって地域に役立つ人間になる、秩序とルールを守って社会と調和する人としてふるまうなどといった、人の生き方や価値観にかかわる内容を含んでいた。政治性を持たせないという強い拘束の半面、個人の内面に踏み込み道徳を涵養(かんよう)することには積極的な教育内容を含んでいるのだ。
かん‐よう‥ヤウ【涵養】〘 名詞 〙 ( 「涵」はひたすの意 ) 自然に水がしみこむように、徐々に教え養うこと。 だんだんに養い育てること。
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たとえば、文部科学省「小・中学校向け主権者教育指導資料『主権者として求められる力』を子供たちに育むために」の中学校における指導事例を見てみよう。ここでは「学校生活の主体者としての自覚をもとう」として、学校生活の課題を見いだし解決する力の育成を目指している。そして、校内委員会の取り組みで生徒が示した「よい点」の一例として「生活班の人が門礼カードを持つようになってから、門礼を意識する人がふえた」、「課題点」の一例として「授業前の二分前着席一分前黙想ができてはいるが、呼び掛けられないと、動けない人が多い」が挙がっている。これのどこが主権者教育なのか。規律に従い分刻みで時間を管理し、授業前に進んで黙想する人を養成するのが主権者教育なのだろうか。
ここには、国家が個人の権利を侵すかもしれないという構図とは全く逆の、教師や学校にとって、社会にとって御しやすい従順な身体を生み出そうとするベクトルが作用している。主権者教育がいつの間にか「自ら秩序に従う服従者」を作り出そうとする装置に堕しているとしたら恐ろしいことだ。
主権者教育が投票率アップだけを目標とすべきでないのは当然だ。だがそれは、個人の内面を権力秩序に従うように教育の中で作り替える装置の一つであってはならない。学習指導要領に頻出する
ではないか。日本国憲法はそのような構えで書かれており、私たちの国の礎はその憲法にある。自立した人間だけが主権者として十全にふるまうことができる。そのことを意識した主権者教育が模索されなければならない。
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おもだ・そのえ 専門は現代思想・政治思想史。明治大学教授。近著に「真理の語り手 アーレントとウクライナ戦争」など。
◆テーマごとの「季評」を随時、掲載します。重田さんの次回は来年2月の予定です。

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