2024年10月9日(水) きょうの潮流
- 羅夢 諸星
- 2024年10月10日
- 読了時間: 7分
2024年10月9日(水)
きょうの潮流
■高校数学でケプラーの法則
ケブラーの第三法則とは?

武藤徹さんは、高校数学の名物教師で、著作が40冊以上ある数学思想家でもあった。小学生、一般向けから大学数学の教科書まで。大東文化大元講師の三浦基弘さん(81)は、後期のほとんどの著作で編集者として伴走した。「武藤先生は相手の存在を認め、決して偉ぶらない。会った人のほとんどがファンになってしまう」
一貫して勤めた都立戸山高校では、男女とも生徒には「さん」付け。敬語で話した。教科書は使わない。すべて手書きのガリ版刷り。最初の授業が「A=BならばB=A」で始まる。進学校の高校1年数学で、生徒は驚き、受験を不安に思う者もいた。だが、ラジカル(根源的)な授業は、高3最後にケプラーの法則を高校数学だけで証明してしまう、高度な学問体系だった。
戸山高校で武藤さんに学んだ吉田克明日大元教授(数学・76歳)は、「矢野ゼミでは、ポントリャーギンの『連続群論』を、武藤先生が講義していたそうです。まだ和訳がなかったので数カ月でロシア語をマスターし、10ページずつ暗記して講義した。矢野先生はその後、微分幾何の大家になったが、武藤先生がいなかったらどうだったろうか」。
大学卒業時、国公私立大の複数から招きがあったが、迷わず、都立第四中学校(現都立戸山高校)の数学教師を選んだ。「数学者になれば、定理の一つや二つは発見できるかもしれない。でも、教師として一万人以上の生徒に接した方がいい」。生前、武藤さんはそう語っていた。
「私は進路の決まった人ではなく、これから進路について考えようという人に魅力があった。相談相手として役に立つと思ったからである」と、「武藤徹著作集 第5巻」には書いている。
◇後半は、戦争体験した武藤さんの市民としての姿に触れます。アロハ記者との縁も。
■平和を守るための科学的思考
「はからずも戦争を生き残った。あとは余生」と本人に聞いたことがある。平和を守るための科学的思考を教えたい。授業では、ベトナム戦争の新聞報道を素材に、米軍の民間人殺傷を論証することもあった。憲法を守る早稲田9条の会の世話人代表をつとめるなど、平和運動、市民運動にも熱心だった。
武藤さんの数学は、常に現実の世界に結びついた数学だった。
流行性感冒で学級閉鎖が議論されたことがあった。「武藤先生は微分方程式を駆使して、すでにピークが過ぎていると証明したプリントを配布し、閉鎖の必要なしと職員会議で提案した。のちに教研集会で、戸山高の数学教師に聞いてみたんですが、『数学教師でも方程式はよく理解できなかった。でも武藤先生が言うならと、みんな納得した』と笑っていました」(三浦さん)
国立感染症研究所が新宿区戸山へ移転する計画が持ち上がり、近隣住民らが差し止め訴訟を起こした。武藤さんも訴訟団に参加し、情報公開で入手したデータを元に、精緻(せいち)な確率論を駆使して感染研の主張を論破した。裁判は原告敗訴となったが「裁判所も武藤さんの科学的論証を理解できず、『しょせん高校教師』という権威主義で黙殺したんじゃないか」(三浦さん)。
■〝病欠〟見舞いから「教育力」発揮
私事にわたるが、打ち明けたほうがフェアだろう。記者は戸山高校で武藤さんに3年間、数学を教わった。2、3年生の担任教師でもあった。
じつにつまらん理由で、高2の途中から学校へ行かなくなった。通学しているふりをして、パチンコ屋や映画館に通い、日雇いの肉体労働をしていた。武藤さんは〝病欠〟を心配し、自転車で自宅に見舞ってくれた。おかげで、親にずる休みがばれた。
出席数は半分もなかった。高3で留年が決まった。家は貧家で、留年する余裕などない。中退の意思を告げた。武藤さんは「短慮はよくない」と、全教科の教師にかけあって、体育や音楽も含め、すべての学科で長い作文を書かせ、もって「卒業」としてくれた。
いま、ライターとして文章を書いて生きているのは、武藤さんのおかげだ。
「僕の教育力が試されている。教育は長い目で見なければならないと、武藤先生がつねづね語っていた生徒とは、あなたのことでしょう?」。7月、武藤さんのお別れの会で知遇を得た三浦さんに、そう言われた。
長男のしげるさんに見守られ、自宅で息を引き取った。7月7日。99歳だった。(近藤康太郎)
辛酸なめ子 (漫画家・コラムニスト) 2024年8月31日9時0分 投稿
アロハ記者の高校時代の恩師エピソードからは真の教育者の矜持が感じられます。流行性感冒で学級閉鎖にすべきか議論中、微分方程式を駆使して、すでにピークが過ぎていると証明したというエピソードには驚かされました。コロナ禍についても、独自の計算で予測してくれそうで、こんな担任の先生がいたら心強いです。アロハ記者が留年しそうになって、作文で卒業できるように采配してくれたエピソードも良かったです。アロハ記者の文章の才能を見抜いていたのでしょう。生徒の個性や才能を伸ばしてくれる先生との出会いは貴重です。そしてアロハ記者近藤さんは、稲作や狩猟でも次々と師匠的な存在を見つけています。準備ができた時に素晴らしい師匠と出会えるのは本人の資質や人徳の賜物なのかもしれません。
大村美香 (
記者=食と農) 2024年8月31日15時42分 投稿
私は近藤さんの3年ほど後に同じ高校に入学し、1年生の時に武藤先生の授業を受けました。ガリ版刷りを使った授業は、簡単なようで難しく、ついていけなかった私は、こっそり本を読んだり、所属していた新聞部の原稿を書いたり。先生はお見通しだったと思います。しかし、注意をされたことは一度もありませんでした。振り返って、数学は学び損ねましたが、大事なことを受け取った時間だったと感じています。
▼1925年、神戸市の生まれ。7月に亡くなった時は99歳でした。小学6年の時、貧しい家の子が学校で差別されるのを見て、「どんな子にも平等に接する教師になろう」と決意します
▼戦後、教育の目的は「人格の完成」とうたった教育基本法に感動。自らの指針とします。教科書は使わず、手書きプリントによる授業。教え子の元会社員の野崎悟一さん(77)は「テストで点数をとるためでなく、数の世界の本質を体系的に教えてくれた。数学にとどまらない、精神的な恩恵を受けました」と
תגובות